祖母について考える

祖母が先日他界した。昨日はお通夜、今日は葬式・法要。案外実感は湧かないまま来たし、別にこれと言って悲しいという感覚も持たなかったし、こう言う時は持たないようにしている。ただ、やはり儀式が始まると色々思うことはあるし、たまにしんどいなーとボヤボヤ思う。そう思ってもしかたがないし今生きている人間の生活に支障があるのも困るので、そう思わないように訓練されてはいると思っている。

さて、明日は別れの言葉を述べることになっているが原稿は書かなくていいかなと思っている。面倒くさいし今更水くさいのはボクが最も苦手としているところである。せっかくなのでここで祖母について振り返り、明日の時には簡単に2,3分くらい話せるようにしておきたい。故人としても、こんなへんぴなブログで語れるとは思ってもみなかったであろう。


そもそも、私はおばあちゃん子なのである。両親が共稼ぎだったのもあって、保育所の迎えから中学の帰りまではずっと祖母の家だった。長期休暇は朝から夕刻までを祖父母宅で過ごし、昼飯は必ずご馳走になったし、大学生になってからも帰省した際は夜ご飯にお邪魔してご馳走になったりもした。祖母の料理はどれも美味しかった。個人的にはうどんとかチャーハンとかカレーが印象に残っている。なんでか分からんが、味が濃いわけでもないのに子供ながら美味しかった記憶がある。お通夜で聞いたが、別に料理教委室とかで習ったわけでは無く、自分で色々研究してたんじゃ無いかとのこと。

ライスカレー。今となっては食器も懐かしい。

祖母と言えば数学という言葉なしでは語れない。祖母は数学がとても好きで、暇があれば大学入試の問題を解いたり高校数学の問題集を解いたりしていたなかなかの変わり種である。テーブルの上には必ず問題集と雑紙が置いてあって、家事が終わるって休みの時間になるとおもむろに数学を始める。毎年の和算のイベントへの投稿も欠かさず、高みを目指していた。昔の師範学校では、物化数学みんな首席である。本人に曰く、他にも強い女性がいたらしいが、まさに祖母の無双状態だったらしい。ずっとそういうお話しは聞いていたけど、昨年施設に入っていた祖母と話していると、何でもその賞状などは未だにタンスの奥に取ってあるらしい。「おじーちゃんとかは働いてからも賞が貰えるけど、私はあれだけだから」と弱々しくなってしまった声で語っていたのが今で強く印象に残っている。転勤族だった家庭だったが残すほどには、大事だったのだろう。時代が時代だっただけに、働きたかったのかなとか、寂しい気持ちになった。色々大変だった中頑張ってきたんやろうね。

私は残念ながら数学は苦手だし、困ったほどにアホチンである。しかし、小学校、中学校から帰ると勉強の時間に数学を教えてくれたのは祖母だったし、今研究をやってなんだかんだ勉強を未だにしているのは祖母の影響もあるんだろうなぁとも思っている。教えてくれる時の祖母はとてもいきいきしていたと今更気が付く。本当に数学が好きだったんだろう。


残念ながら眠くなってきたし本日は朝から色々忙しいから、そろそろ書き進めるか悩んでいる。

小さい頃から面倒を見てもらったから、色々怒られた気もするし、色々褒められた気もする。女性は中、男性は外の時代を生きてきた祖母にとって、私のような子孫にはとても期待してくれてたんだろうなと思っている。たまに自分の子供の話を嬉々として語ってくれたり、過去のそう言う思い出を語ってくれたり。それが一つ、祖母の社会進出にもなっていたのだろうなと思っている。家庭での貢献が社会進出で無いとは思っていないが、当時を考えるにそんな感じがしている。

私自身ももっと生前に色々と結果を持って帰りたかった。ちょっと自分のことを盛って報告したりした気もするが、祖母も嬉しそうに聞いてくれていたから、それはそれで嬉しい。


小さい頃、夏休みとかはたまに買い物に付き合ったりしていた。私の住んでいたのは八木山だったから、山だらけの道は子供にとってハードだった。祖母はそれを買い物カートを持ちながらぐんぐん進むものだから、私はいつも追いつくのが大変だった。はやいね〜なんて話してた記憶がある。なんでだかは忘れたが、大学生になってから同じことをしたことがある。もうその時には私が歩くのが速くなったのか祖母が遅くなったのかわからんが、だいぶ時の流れを感じたし、ちょっと寂しくも感じた。


自分で考えて動く人だったと思う。そして、大の心配性なのだけどチャレンジングなことができる人だったと思う。パソコンもやったしケータイもやったし、畑もやったし買い物もやったし、家事もやったしその時には必ず色々な洞察があったと思う。何をどうしたら効率が良いとか、何をどうしたら上手く行くとか、そう言う話は良く聞いた気もしている。一方で心配性で、細かいところまで気が回るタイプだったとも思う。


孫は大変良くしてもらったし、恐らく子供以下は皆同じ。私らの活躍を本当に自分事のように嬉しく聞いてくれて、誇らしく話してくれた。さっきも書いたけど、恐らく我々の活躍が、家の中にいる女性には本当に大事だったんだと思う。ちょっとでもばーちゃん孝行できているといいのだが。わからんね。家を固く守って子供達を輩出する、The 昭和の女性。激動の時代を生きてきた、強く逞しい女性だったんだと、大人になってから思う。

祖母は死んでしまったわけだけど、別に祖母の意思が消えたわけではないし、それはボクらにも脈々と受け継がれている。人間というのは面白く、近くにいた人の影響を受け継いでいくんだろうなとは思っている。勉強をしたり、学生を教えたり、しゃべり方の節々をとっても、あ、祖母と似ているなと思うことがたまにある。だから、別に祖母が死のうがなんだろうが、別にこれからもそう言うものは子へ孫へ受け継がれていくんだろうと思っている。


ここ数年で祖母に言われた面白い言葉を幾つか。

「別に夫婦で仲が良いわけではないのよ。」

草。奥さんの「どうしたらそんなに結婚生活が長続きするんですか?夫婦円満のコツは?」の質問についての回答。本当は仲が良いんだろうけど、あの時代はお互いにしっかりと役割も決まってただろうから、譲ることは多かったんだろうな。

「仕事がもらえるだけいいじゃない」

死んじゃう2週間か3週間前に、お見舞いに行ったときに言われた言葉。ちなみに、祖母はこの言葉を元気なときも言っていたから、恐らく祖母の根幹の一つなんだろうね。「忙しいんだ、よくわからん仕事も沢山あるしなぁ」って、声も出なくなった祖母に言ったんだよね。その時カスカスの声だったけど、いつもと同じことを言っていたよ。確かにそうだね。仕事を貰えているウチが花なのかもしれないわ。これ、どうなんだろう。やっぱり上に行くときにはある一定の我慢が必要だし、社会で生きていくならそう言うタフな生き方も必要なんだろうね。


相も変わらぬまとまりのない文章で、深みもない文章でダラダラと書いてしまった。ちょっと寝て、法事に臨むことにする。

ではでは〜