大学にいるからには教育を考えねばならないと思う。私はまだ教育する必要もないがいずれはしないといけないし、一緒にやってくれる学生の人生に少しでも貢献できるべきだとは思っている。以下では放任主義を「ほったらかし」と一時的に定義してお話しを進めるとする。
私は放任主義というものを予てより良いものだと思っていたし、我らゆとり世代は半ばそのような感性の元、育ってきたように思う。自由にやって自分から物事を獲得するというのは一見美しい教育の在り方のようにも見えるし、子ののびのびとした成長を促進するとも思われる。
しかし、長く大学に身を置いてきて、このような教育で上手くいく子もいると思うが、大抵はそうではないと最近思うようになった。何かしらの指導者の介在があって、正しい哲学や研究者の吟爾が学べるのではないかと思う。それもわからぬまま、ただ学生を放任し盲目的に研究させるのは良くないのではないか。例えば私たちは、小さい頃に道徳や倫理を学ぶ。これは親に叱られたり学校の先生に諭されたり、色んな経験を経て基礎を学ぶ。この基礎を元に、社会に放出され、都度物事を考えながら自分の考え方を形成していく。
研究も同じで、最初から何も基礎的なことを学ばず、ただ自由に研究のようなことをするのは、道徳や倫理を学ばず社会に放出された大人の振る舞いを見ているかのようである。もちろん、それがおかしいと気づき、自分自身で暗中模索しながら考える学生さんもいるだろうし、それは素晴らしいことだと思っている。実はそっちの方が味が出る気もするが、それは相当な遠回りである。基礎というのにとらわれない考え方もあるが、今の私には人類が長い歴史の中で築いてきたものを覆すのは、経った100年もない人生の中でもなかなか難しいだろうとも考えている。
放任主義というのは一見良さそうに見えるのだけど、そうではないと思っている。放任主義というのにかこつけて教育を放棄するのは教育者の怠慢である。
教えることは教え、盗ませることは盗ませ、譲らないものは譲らない、そう言った吟爾を持った教育者になることがチームを作る上でも大事なのだと思う。私もいつかラボを持つようになったときのために、自分自身の立ち居振る舞いを日々考えるべきであろう。